諏訪忠恕

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凡例
諏訪 忠恕
時代 江戸時代後期
生誕 寛政12年10月10日(1800年11月26日
死没 嘉永4年5月1日(1851年5月21日
別名 鍈次郎(通称)、射山(号)
戒名 泰俊院殿徳海義山大居士
墓所 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺
官位 従五位下、伊勢
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
信濃高島藩
氏族 諏訪氏(神人部氏)
父母 父:諏訪忠粛、母:前島氏(山県氏とも)
兄弟 忠恕森川俊一前田長徳、旗本諏訪頼安室、家臣千野貞壮室
正室:清昌院(烈。松平定信の娘)、側室:富田氏の娘
忠誠、頼図、頼威、娘(渡辺恒正室)、娘(稲葉正巳正室)、娘(米倉昌言正室)、倭子(本多助実正室)、娘(井上正和正室)、揚子(神人部貞炳室)
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諏訪 忠恕(すわ ただみち)は、信濃高島藩の第8代藩主。第7代藩主・諏訪忠粛の長男。

生涯

側室の子として、諏訪にて産まれた。 文化10年(1813年)12月、従五位下伊勢守に叙任され、文化12年(1815年)12月に松平定信の娘を正室とし、翌文化13年(1816年)11月21日、父の隠居により跡を継いた。

文化14年(1817年)12月16日に叙任する。藩政においては藩財政再建を目指して検地諏訪湖の治水工事を行った。また文政7年(1824年)には桑の苗を下賜し、養蚕業の奨励における産業発展などを行なった。これらの政策はいずれも成功したが、治世中における連年の凶作江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化し、文政7年(1824年)には高島藩で唯一の百姓一揆とも言える「山留強訴」が起こった。天保7年(1836年)、藩内の余剰米を集めて、凶作時のために備蓄する仕組みを作った。同年8月、隣国甲斐国で起こった一揆・打ちこわし天保騒動鎮圧のために、幕府甲府代官所の依頼を受けて、鎮圧のために甲斐国に出兵した。

天保11年(1840年)5月4日に長男の忠誠に家督を譲って隠居し、嘉永4年(1851年)5月1日に江戸木挽町の藩邸にて死去した。享年52。


系譜

父母

  • 諏訪忠粛(父)
  • 前島氏(山県氏とも) ー 側室(母)

正室

側室

  • 富田氏

子女

  • 諏訪忠誠 - 長男。生母は清昌院(正室)
  • 諏訪頼図 - 諏訪頼安養子。旗本1千5百石。頼安の室は忠恕の姉妹。
  • 諏訪頼叙 - 早世。
  • 諏訪頼威 - 旗本諏訪頼永養子。次子の諏訪忠礼は忠誠の婿養子として藩主家を継いだ。
  • 渡辺恒正室
  • 牧子 - 安房国館山藩主稲葉正巳正室
  • 政子 - 武蔵国六浦藩主米倉昌言正室。昌言の娘は諏訪大祝家の諏訪頼固室。
  • 諏訪倭子 ー 信濃国飯山藩主本多助実正室
  • 下総国高岡藩主井上正和正室
  • 諏訪揚子 ー 諏訪神社大祝家一門神人部貞炳(千野貞炳)室

脚注

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上諏訪梶の葉紋諏訪氏大祝・当主(1816年 - 1840年)

有員 - (13代略) - 有信 - 頼信 - 為信 - 為仲 - 為継 - 為次 - 為貞 - 敦貞 - 貞方 - 貞光 - 敦光 - 敦忠 - 敦信 - 信重 - 信時 - 盛信 - 盛重 - 宗経 - 頼重(照雲) - 時継 - 頼継 - 信継 - 直頼 - 信有 - 有継 - 頼満(伊予守) - 信満 - 政満 - 頼満(安芸守) - 頼隆 - 頼重 - (勝頼) - 頼豊 - 頼忠 -

藩主諏訪家)頼忠 - 頼水 - 忠恒 - 忠晴 - 忠虎 - 忠林 - 忠厚 - 忠粛 - 忠恕 - 忠誠 - 忠礼 - 忠誠(再襲) - 忠元 - 忠弘 - 忠則 -

(大祝諏訪家)頼忠 - 頼広 - 頼寛 - 頼隆 - 頼基 - 頼超 - 頼央 - 頼紀 - 頼隈 - 頼本 - 頼啓 - 頼壽 - 頼武 - 頼固 - 頼宣 -

諏訪家諏訪藩8代藩主 (1816年 - 1840年)
日根野家
諏訪家