宗義如

 
凡例
宗義如
時代 江戸時代中期
生誕 享保元年10月18日(1716年12月1日
死没 宝暦2年1月5日(1752年2月19日
改名 弥一(幼名)、義如
戒名 円鏡院殿正空妙因大居士
墓所 長崎県対馬市厳原町国分の万松院
官位 従四位下刑部大輔侍従対馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
対馬府中藩
氏族 宗氏
父母 宗義誠、樋口真峯娘竹
宗方熈
兄弟 義如義蕃松平忠名正室、お升、
藤堂高治正室
細川宣紀八女喜和
清樹院、掃部(村江氏)、早田氏、イロ、土田氏ら
如式、義暢、俵如泰、浅井如英、
樋口暢朝、樋口暢英、浅井暢謙ら
義蕃
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宗 義如(そう よしゆき)は、対馬国府中藩8代藩主。

生涯

享保元年(1716年)10月18日、第6代藩主・宗義誠の長男として生まれる。享保15年(1730年)に父が死去したとき、若年のために家督は継げず、代わって叔父の方熈が継いだ。享保16年(1731年)5月、義如は方熈の養子となり、12月に従四位下、刑部大輔に叙位・任官される。享保17年(1732年)9月11日、方熈が隠居したため、家督を継いで第8代藩主となった。このとき、対馬守に任官され、12月に侍従に任官される。

朝鮮貿易の衰退などから対馬府中藩の財政は悪化していたが、享保17年(1732年)と享保19年(1734年)の大火などの災害もあってさらに財政悪化が進み、倹約令を出し、延享4年(1747年)には家臣の知行借上を強化するなどした。さらに家老を幕府に派遣して、補助金を得るように交渉した。これにより幕府から毎年1万両を与えられることになったが、寛延3年(1750年)に停止させられた。また、延享4年(1747年)に強訴が起こるなど、改革も効果は無かった。

宝暦2年(1752年)1月5日、当時対馬で流行していた疱瘡が原因で死去した。享年37。跡を弟で養子の義蕃が継いだ。

系譜

  • 父:宗義誠(1692-1730)
  • 母:竹、仙寿院 - 樋口真峯の娘
  • 養父:宗方熈(1696-1760)
  • 正室:喜和(1720-1754)、禰々姫、香厳院 - 細川宣紀の八女
  • 側室:清樹院 - 佐伯市左衛門の姉
    • 三男:宗義暢(1741-1778) - 真孫数馬、宗義蕃の養子
    • 四男:俵如泰
    • 六男:樋口暢朝
  • 側室:掃部 - 村江半弥の娘
    • 長男:宗如式
  • 側室:イロ - 早田佐五衛門の娘
    • 五男:浅井如英
  • 側室:土田宇平太の妹
  • 側室:寺尾徳斎の姉
  • 側室:鶴岡忠兵衛の妹
    • 七男:樋口暢英
    • 八男:浅井暢謙
  • 養子

偏諱を与えた人物

  • 氏江苗(実弟、のちの宗義蕃、次代(第9代)藩主)
  • 式(ゆきのり、長男)
  • 真孫資(3男、のちに義蕃の養嗣子となり宗義暢に改名し第10代藩主となる。)
  • 泰(4男)
  • 浅井英(5男)
  • 樋口連(従兄弟、養父である叔父・宗方熈(第7代藩主)の長男なので義兄弟でもある。方熈が継いでいた樋口家を継ぐ。)
  • 村岡喬(従兄弟、伯父・宗義方(第5代藩主)の三男)
隅立て四つ目結 丸に平四つ目結宗氏対馬府中藩8代藩主 (1732年 - 1752年)