坂元親男
坂元 親男 さかもと ちかお | |
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生年月日 | (1911-02-02) 1911年2月2日 |
出生地 | 宮崎県北諸県郡高崎町 |
没年月日 | (1998-04-17) 1998年4月17日(86歳没) |
死没地 | 宮崎県宮崎郡清武町 宮崎医科大学附属病院 |
出身校 | 京都高等蚕糸学校 |
前職 | 宮崎県議会議員 |
所属政党 | (自由民主党(三木派)→) (無所属→) 自由民主党(三木→河本派) |
称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 |
第51代 北海道開発庁長官 | |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
第20代 沖縄開発庁長官 | |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
選挙区 | 宮崎県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1976年12月12日 - 1989年7月23日 |
選挙区 | 旧宮崎2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1969年12月27日 - 1972年11月23日 |
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坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 1998年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。
来歴
宮崎県北諸県郡高崎町(現都城市)出身。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校・附属中学校)を経て[1]、1932年、京都高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)卒業[2]。宮崎県議会議員を5期務めた後、1969年の衆院選に自由民主党公認で出馬し初当選。1972年の衆院選で落選。1976年の参議院議員補選に宮崎県選挙区から無所属で出馬し当選。その後自民党に復党。参議院当選3回。自民党では番町政策研究所(三木武夫→河本敏夫派)に所属。1988年12月から翌年の6月まで竹下改造内閣の北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を務めた。同内閣の高辻正己、片岡清一、丹羽兵助とともに明治生まれの国務大臣としては最後となった。1989年政界引退。
1998年4月17日、胆嚢癌のため宮崎県宮崎郡清武町の宮崎医科大学附属病院で死去、87歳[3]。死没日をもって従三位に叙される[4]。
栄典
脚注
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- ^ 『京都高等蚕業学校一覧 自昭和五年至昭和六年』京都高等蚕業学校、1930年9月20日、96頁。
- ^ "坂元 親男". 新訂 政治家人名事典 明治~昭和. コトバンクより2023年1月1日閲覧。
- ^ “訃報”. 産経新聞. (1998年4月18日). オリジナルの2001年2月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20010222012444/http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9804/18/paper/today/dead/18dea004.htm 2023年1月1日閲覧。
- ^ 『官報』第2388号9-10頁 平成10年5月26日号
- ^ 「秋の叙勲 受章者4492人 隠れた功労積み重ねた人にも光」『読売新聞』1989年11月3日朝刊
議会 | ||
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先代 井上吉夫 | 参議院農林水産委員長 1981年 - 1982年 | 次代 下条進一郎 |
公職 | ||
先代 粕谷茂 | 北海道開発庁長官 第51代:1988年 - 1989年 | 次代 井上吉夫 |
先代 粕谷茂 | 沖縄開発庁長官 第20代:1988年 - 1989年 | 次代 井上吉夫 |
沖縄開発庁長官(1988年-1989年) | |
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沖縄開発庁長官 | |
沖縄及び北方対策担当大臣 |
参議院農林水産委員長 (1981年-1982年) | |
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奇数回 | |
偶数回 (第1回の3年議員を含む) |
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官選 |
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公選 |
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