ガブリエル・デュポン

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ガブリエル・デュポン

ガブリエル・エドゥアール・グザヴィエ・デュポンGabriel Édouard Xavier Dupont, 1878年3月1日 カーン - 1914年8月1日 ル・ヴェジネ)はフランス作曲家ドビュッシーの愛人だったガブリエル・デュポン(Gabrielle Dupont)とは別人。

生涯

リセ・マレルブ(フランス語版)教授カーンサンテティエンヌ教会(フランス語版)オルガニストだった父親から、基礎教育を受けた。2人の兄はいずれも芸術家の道を歩んでおり、ギメ美術館司書となったモーリスは文学者・東洋学者で、ラ・サルトブルターニュの風景画家となったロベール(1873年 - 1949年)はパリの市庁舎の公式画家となった。

15歳でパリ音楽院に進学して和声法をトードゥに、対位法アンドレ・ジェダルジュに、作曲をジュール・マスネに師事。1895年アレクサンドル・ギルマンオルガンを、1897年から1903年までシャルル=マリー・ヴィドールにも作曲を師事。

兵役に就きながら1901年ローマ大賞に向けて準備するが、アンドレ・カプレに敗れて2位に甘んじた(3位はモーリス・ラヴェル)。歌劇《ラ・カブレラ》(La Cabrera)によりソンゾーニョ作曲コンクールの覇者となり、スカラ座とその後のオペラ=コミック座での上演によって非常に有名になった。この他に3つの歌劇を作曲している。ジャン・リシュパン(英語版)原作によるブルトン語メロドラマの《グリュ》(Glu)(1909年)、《風呂場の笑劇》(La Farce du cuvier1911年)、そして異国趣味を打ち出した《アンタール》(Antar1912年14年)である。《アンタール》は作曲者没後の1921年3月にオペラ座で初演された。なお、『アンタール』の成功により、デュポンの知名度は高まったという[1]

デュポンは優れたピアニストでもあったので、10曲からなるピアノ曲集《砂丘にある家(フランス語版) La maison dans les dunes 》を作曲(1908年 - 1909年)、1910年6月3日サル・プレイエルにてモーリス・デュメニル(英語版)によって初演された。

結核により他界。ル・ヴェジネの墓地の見晴らしの良い場所に墓碑銘が置かれている。

音源・作品一覧・参考書籍については仏語版を参照のこと。

脚注

  1. ^ 小松耕輔「欧米音楽界の現状」『太陽』博文館、1923年8月号、122ページ。

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